Japan x USA in Taiwan 2015.09.30 個人発信


2014年、台中の日式炭火焼肉店「岩手」の看板製作の依頼を受けた。その書き下ろしとは別で、一中街の路上に座って字を書いていた。みんないいリアクションななか、ひとり飛び切りいいリアクションを見せたのが、宿泊先のゲストハウスオーナーであった。半年ほど経って、またこの宿を利用した。Facebookの字嗨というグループに僕がこの宿にいることを公表したら、二日間で40人ほどのお客さんがやって来た。宿の下階はカフェになっているので、自然と売り上げが上がる。手前味噌ながらsoyamaxはいい招き猫になる。そこで、彼が提案したのが個展開催だ。そして、ひとりの書家を紹介してくれた。アメリカ人英語教師スノーマン、中国語すら使いこなす彼は、楷書、行書、隷書と書き分けることが出来る。焦りとか悔しさもありながら、互いに筆と酒を交わして仲良くなる。こんな二人が同時に作品を書き下ろすのが、旧正月直前の2015年1月。玄関先、柱、寝室、至る所に貼るあの赤い紙を二人で書き合う。恭喜發財,恭賀新禧,新年快樂,逆さまの福、春、そんなのを書きまくるのが、今から楽しみである。カメラマンと新聞記者も何日か入りそうだ。間違いなく新しい次の繋がりもできる。そうそう、台中でアツいものと言えば、ミニ四駆と剣玉。今昔、僕もハマる遊びがまた人を繋いで仕事になる。なんと言っても若手社長の多いこと多いこと。ぼくも一緒になって遊んでるうちに、「我會說中文一點點。大概聽不懂。但是我的日文太棒了!哈哈」なんて言葉がスラスラ出てくるようになってきた。童心に返れば、吸収がとにかく早い。思えば13年前、病床に伏してた時からこんな準備をしていたんだっけ。あんときもいまも楽しんでるのには変わらないけどね。


なぜフランスロケなのか、そして 2015.08.31 個人発信

2014年12月、このホームページを通じてテレビ東京の番組製作の方からメールが入った。

「突然のご連絡で恐縮です。新聞記事であなたのことを拝見いたしました。

もしご都合が合うようでしたら、今月中にでも一度お逢いしてお話をさせていただけないでしょうか」

間髪入れずにこう返信した。

「取り急ぎ返信させていただきます。今日明日、東京にいます。逢えそうなら調整できます。いかがでしょう?」

都合が良すぎるほどタイムリーに、そこにいたのだ。翌日すぐに逢うことが出来た。

番組名は『生きるを伝える』。内容は、病気や挫折からの這い上がりを紹介する約3分間のミニドキュメントとのこと。

初顔合わせは、カフェランチをしながらの身の上話といったところ、ロケの日程は半年後ぐらいになるだろうとのことで、また後日調整しましょうとなった。

当初の予定では、沖縄の自宅か、翌年6月の銀座個展か、新潟での骨髄バンクイベントかを舞台に撮影しようってなってたんだけど、いざ日程が近づいてみると肝心の担当者が旅番組の収録でヨーロッパにいるって言うらしい。狙いもせず奇跡的に、ヨーロッパツアーを企画していた僕はそのことを話すと、「じゃぁ、パリでロケやりましょう!」ってトントン拍子に決まったのが、2015年4月の話。

僕にとって初挑戦のパリ。フランス語も土地勘もわからないが、"座り方"は知っている。ロケのスタッフは日本人総勢5名。皆、フランスの玄人たちだ。

路上パフォーマンスならとポンピドゥーセンターを紹介されて、"座ってみた"。フランス語も教えてもらった。まぁ結局会話は英語か中国語になっちゃうんだけど。

だけどその場所ではあまりいい画が撮れなかったんだ、実は。そこでツテのあるギャラリー前で営業させてもらうことになった。テレビのチカラである。収録中に女神は降臨した。スイス人作家の彼女の話はまた今度。

soyamax的世界ランキング 2015.07.31 個人発信

まだまだ少ないけど地球のいろんな場所に座ってみての暫定順位(数字だけじゃ表せない総合順位)を付けてみた。

 

11位 中国 上海

トランジットでたった2時間だけのトライだけど、感じたアウェー感。ノーゲスト。難しいけど再挑戦もしてみたい。

 

10位 インドネシア バリ(クタ・ウブド)

灼熱の中座ってみると、たくさん子供達が群がってくる。稀に素晴らしい出逢いもあるんだけど、そこを積極的に狙うには別の方法も考えなくては。

 

9位 フランス パリ・ニース・グレノーブル

やり方次第では大化けする可能性もあるけど、僕のスタイルでは現状難しい。渡航してるアジア人には大ウケする。

 

8位 スペイン バルセロナ

スペイン人、喋ると盛り上がるんだけど商売としてはなかなか難しい。観光で来てる日本人に救われる。

 

7位 ドイツ ベルリン・コンスタンツ

路上アーティストが多いからか受け入れられやすい。グラフィティアーティストによく出逢う。

 

6位 ロシア モスクワ・サンクトペテルブルク

どちらも大人が群がる。ロシア語が流暢に出来るなら最高の舞台かも知れない。

世間的に思われてるほど、難しい場所ではない。

 

5位 イギリス ロンドン 中華街

中華に興味のある人が来るだけあって、漢字が目を引くみたい。日本人なの!?ってよくなる。中華圏のお客さんが止まるのは意外と少ない。

 

4位 フィンランド ヘルシンキ 

大人も子供も地元も観光客も、とにかく人が盛る。面白い馬鹿を盛り上げてくれる国だということがよくわかる。

 

3位 香港 フェリーブリッジ・長洲

広東語が喋れないのはそんなに問題にならない。むしろ楽しく仕事が出来る環境でもある。良い出逢いがたくさん転がってる。全天候型なのも素晴らしい。刺青コラボあり。

 

2位 スイス モントルー

何と言ってもジャズフェスティバルの参加許可。これ無くしては語れない。恵まれ過ぎた環境に恐縮するぐらい。毎年来訪確定。

 

1位 台湾 台北・台中・台南・高雄・花蓮

街中、山奥問わず必ず素晴らしい出逢いに恵まれる。店舗看板、個人名刺、刺青コラボ多数。移り住みたいレベルで首位。

 

(行った季節、経緯、詳細、今後行くであろう他国などはまた順次、もしくは書籍にて発表する見込み。)

銀座soyamax2.5D書画展 2015.06.24 個人発信

2015年6月、東京銀座で初めての展示会を行った。2.5D書画というのは、油彩やアクリルガッシュ、樹脂を用いて文字通り厚みや肉感を出して字を書いたものである。そもそもこの画法のキッカケは、キャンバスにこぼした原液のアクリルをどうにかしようと試行錯誤したことから始まったのだけど。料理も出逢いもそうだけど、失敗したときに限って素晴らしいマリアージュが生まれたりするのよね。それが成功かどうかはさておき、新しいものを生み出す引き金になればどんどん失敗したいと思う。さて、東京銀座、僕なんか場違いだと思ってた。いや、場違いなギャラリーしか見てなかったのかもしれない。「アートスペース銀座ワン」ここは別格だった。13:00-19:00、通常展示会というのはそんな時間で行われている。ここも同様である。しかし、10:00-22:00にしたいという、こちら側の要望を快く呑んでいただいたのである。前も後ろも3時間ずつの延長。というのも、昼休みにしか、仕事後にしか来れないであろうお客さまを可能な限り全て呼びたかったから。結果して、酒好きは酒好きを呼んでギャラリーバーとなったのも、ギャラリーオーナーさんは喜んでくれた。夜は人が入らないという、予想を遥かに裏切ってしまった。本当に時間延長について踏み切って良かった。東京ならではの再会も多かった。小中高時代の同級生、電力会社時代の同僚、パラグライダー仲間、イベントだけでしか会わないような希少な友達、懐かしいのから最新のまでいろんな再会が実現した。そして、海外からの再会が多かったのがとても印象的だった。ロシアで世話になった留学生、トランジットで町歩きしてたやんちゃな大人たち、ヘルシンキで出逢った宿もやっちゃう美容師さん、台湾で出逢った社長夫人、香港で出逢ったサラリーマンと起業家、台湾人の彼女に行って来いと言われてやってきたマレーシア人、などなど、兎にも角にも縁が渦巻く展示会になった。このご縁をさらに膨らますために、また東京での展示会、イベントを盛り上げてやっていきたいと思う。

KIMONOとKENDAMA 2015.05.31 個人発信

着物を着てけん玉を首からぶら下げること。それは一目瞭然で変な奴だと認識できること。特に日本に住んでてコレをやるには若干の抵抗がある人がおそらく大多数だと思う。100年前ならどうかわからないけど、いまの時代というのはどうだろう。やっぱり抵抗あるのかな。たぶんんだけど、僕だって電力会社やホテル料理人だったらこんな格好は出来ないかもしれない。よほどのパーティーなら当時からやってたかも知れないけど。特別、着物が好きなわけではない。着物を着ていて話しかけてくるような人が好きなのである。結果、いまは大好きなアイテムの一つになったけどね。剣玉もそう、大道芸として出来るほど上手くもない。これをやりたがって喋ってくる子ども、大人、外国人が好きなのである。で、やっぱり持ち歩いていたら多少は上手くなってきた。何級かはわからないけど、モシモシカメヨなら歩きながら出来るぐらいまでには。趣味ならこれで満足してもいいと思う。このキッカケから仕事に繋がるのだ。どうやってるのか、やっぱり縁筆である。この話しかけた、かけられたのご縁をいつも通り筆で交わすこと。形式ばった名刺交換会で渡す時より、断然感動レベルは高い。これがすぐに何か仕事になる場合もある。後日、思い出したかのように連絡をいただく場合が実は多い。友人に子どもが生まれたから命名書を送りたい、自分が結婚するからウェルカムボードを作りたい、イベントをするからTシャツを作りたい、新商品のラベルに使いたい、名刺をこの字で作りたい、そんな風にして蒔いた種の1%でも芽が出ればありがたい話だ。僕にとってはただのあ遊び道具、ただのファッションではない。海外でのこれが殊更にまた繋ぎやすいのだ、縁を。ロシアの地下鉄で話しかけてきたお姉さんは着付けの先生、剣玉持ち歩いてる少年たちとモシカメバトル、やっぱり定番で多いのは記念写真、日本人は気になってるけどいじらない人が殆どな気がする。類は友を呼ぶの類が少ないのだと思う。海外に出て感じるのが、その類の多さかな。国によってピンキリだと思うけど、この可能性と居心地って刺激も安心感もあるんだよね。まずは低めのハードル、剣玉から手に入れて初めてみませんか。

香港とフランス 2015.04.30 個人発信

2015年4月、未踏の地・香港へ出向いてみた。行くことになったキッカケは、LCC開通とフィンランドでの出逢いだ。2014年夏、一人も友人のいない土地で始めたヘルシンキチャレンジ。そこでのお客さんの一人が香港人の建築デザイナー志望の女の子だった。意気投合しすぎて一緒にトナカイ喰ったり、トーベヤンソン展を見に行ったりした。その彼女、当初はフランスに住んでいた。だから今度はフランスで逢おうって約束をした。ぼくがフランス行きを決めた頃、なんと彼女は予定早めて香港に戻ってしまった。 じゃぁってんで、ちょうど就航した那覇⇔香港のピーチエアラインを利用して行くことにした。問題は滞在先、香港はホームステイが難しいと聞いていた。殆どが家族同居で物件が狭いからって。彼女の家も同様だ。そこで提案されたのが、彼女の元彼の家である。フランスで同棲していたというフランス人。会ったことはないが、僕の書画を先に受け取っている彼。なんでかって、ヘルシンキで彼女がお土産用に注文してくれたから。新鋭建築デザイナーの彼は快く僕を迎えてくれた。住んでいるのは長洲という、香港島からフェリーで40〜60分の漁村リゾートアイランド。クルマもバイクも走らない、だけど賑わいのあるこの島が僕も大好きになった。彼の仕事は一般住宅、高層ビルのデザインはもちろん、もっとも興味深いのが、島の廃校のリノベーション。週末、連休は観光客でごった返すこの島に、アートの発信拠点を作りたいと、まさにいま計画実行中なのだ。一緒にカタチにできる仕事がある。楽しみでしょうがない。島の路上にも座ってみた。通りがかった日本人夫婦。僕は接客に忙しく、彼らとは十分に話せなかった。後日、島の住人に聞き込みして探し歩いた。けん玉屋の店主に聞いたら友達だった。32年この島に住む夫妻、僕が生まれるよりも前に住んでるわけだから、なんでも知ってる。そんな彼らのお店で展示会をさせてもらうことになった。丸1年後に必ずやりましょうって。最終夜、送別会を開いて下さった夫妻。もちろん僕をホストしてくれたフランス人の彼も同席。そこに夫妻から招かれて来たのがこれまたフランス人のカーボンかなんかのデザイナー。そして、フェイスブックの情報だけで島まで僕を探しに来てくれたヨガマスターもまたフランス人。あろうことか翌朝、沖縄で打ち合わせしたのもフランス人。行くと決めると同時に口に出してると、自然とそういう風に脚本が出来てくる、そんな気がする。無計画な計画ほど自然である。このクダリとは別に台湾からのアシストで繋がったのがタトゥーとのコラボレーションだ。台北西門町の猫町刺青からパスをもらって、伺ったのが宇宙刺青。ここのマスターたちがまた、気持良すぎるぐらい僕を応援してくれる。話を聞いて粒を流して涙するほど嬉しかった。最高の仲間たち、そして、繋がる仲間たち。もちろんフランス人デザイナーの彼もくっつけた。ときに余計なお世話になるときもあるけど、僕みたいな変なのを介して人が繋がる瞬間が大好きだ。瞬間だけでなく次に移せる波が出来たらなおさら面白い。生き方に面白さを貪欲に求めるとこんななるのかな。そして、それを面白がってくれる世界中のみんなにそれを繋げてもらってる。好多謝你!Merci!

拾うも拾われるも 2015.03.21 個人発信

 

ヒッチハイクの話。最初は拾う立場だった。21歳の僕、闘病明けて初めて北海道を愛車MINIで駆け回っていたときだった。苫小牧から襟裳岬を目指す少し年上のお兄さんは、三ヶ月働いて一ヶ月旅をするそういうタイプの旅人だった。正社員で精一杯の一週間休みを取ってきた僕にはとても新鮮に、そして羨ましく映った。乗せることへの抵抗はまったくない。きっと親父もオフクロもそうするであろうし、きっと我が家の家訓なんだろうと思う。困った時はお互い様。助けが欲しければ手を挙げる。どこの家庭でも教わっていることだと思うけど、大人になるとなかなか手を挙げにくくなる世の中なのかな。いろんな人を拾ってきたが、いよいよ拾われる側に回ってみたのは28歳のときだったかな。日本の移動の十中八九をそれで回る友達が出来た。あまりにも刺激的だった。お金、時間云々は抜きにして、自分もやりたいと思った。一番最初に拾ってくれたのは乳児を連れた女性。元運び屋のお姉さんだった。物はよく運んだけど、人を運ぶのは初めてだって笑ってた。子供がいなきゃどこまで運んでやるんだけどね。そんな勢いのある素敵すぎるお母さんだった。いま31歳、このコラムをバリ島で書いている。ヒッチハイク移動を試してみた。無理やり乗せようとするタクシーをゴメンとあしらい、神の降臨を待つ。運び屋の若い兄弟だった。トラックの3人掛けシートに仲良く座ってたくさん喋った。自宅にもお邪魔した。拾ってくれる人が好きな奴が、拾われる奴を好きな人に拾われる。当然のことだけど、面白くならないわけがない。性善説という言葉が好きだ。新幹線で時間を買うもよし、夜行バスで睡眠を買うもよし、自力で経験を積むもよし、他力で縁を繋いで感謝するもよし。賛否両論、危険性、冒険性、ふまえた上で、選択肢の一つに加えてみませんか、ヒッチハイク。

縁を掴みに船に乗る 2015.02.26 個人発信

世界10ヶ国の青年約100名が乗る、SWY(Ship for World Youth)という内閣府主催のイベントに一泊二日だけ参加してみた。

インド、オマーン、バーレーン、トルコ、ペルー、ブラジル、イギリス、ニュージーランド、ケニア、スリランカ、この10ヶ国、31soyamax、すべて未踏の地である。

その国々からどんなして選ばれたかはわからんけど、志も語学力も高い世界の青年たち。学生、ミュージシャン、アーティスト、道路設計者、国だけじゃなく、職種まで豊富だ。正直、自分の英語力でこんなイベントに参加して大丈夫なのか、喋りたいことは喋るけど、ヒアリング力が著しく乏しい、そんな不安を抱えてのエントリーだった。いざ乗船してみると、周りの参加者の語学スキルに圧倒される。

My art is your name.Your name is my art.自己紹介はこれから始めた。100名全員は無理でも、交わせる相手、欲しいと言ってくれる相手がいれば全員名刺を書いて渡した。肌に描いて見せたらそれが欲しいと群がった。1ヶ月を共に過ごす正規メンバーと違い、たったの24時間しか時間はなかった。一期一会を本気でやれば再会の約束はそう難しくない。

"I wanna do this art in your countries!"

"Come on our countries and stay our home!"

呼ばれてるうちが花だ。いつか行くとは言わない、年内に行く。駄目な理由は並べない、行ける方法を探すだけだ。抱えていた言葉の不安は、悔しさに変わって、学ぶ意欲になった。そろそろポルトガル語が必要だ。2015年、ブラジル、行こう。


刺青とsoyamax 2015.01.28 個人発信

海外では特に刺青師と思われることがある。
僕の画く絵や字がそういうものに見えるのかもしれない。
彫る技術もなければ、彫られた経験もないんだけど、ある出逢いから急速にその手の友人が増えていったのだ。
とある夏の日、沖縄県恩納村ムーンビーチ付近国道58号線。
僕は路上に座り、筆を走らせていた。
その晩、正直第一印ちょっと勘弁っていう輩たちに囲まれた。
理由は酔い加減と刺青だったかもしれない。
洋彫りには馴染みがあっても、和彫りの皆さんに囲まれたのはあれが初体験だったからかな。
イメージって持ち合わせたくなくても、既に持ってしまっているものである。
それが、任侠映画であるか、実体験か、身内の話かで、全然違うものになるとは思うけど。
僕の場合、やっぱり「刺青=ヤクザ」のイメージってどうしてもあったんだと思う。
昔働いていた原発でいくらか見慣れてはいるものの、距離の近いそういう方々には巡り合わなかったので。
話戻ってその輩たち。
東京恵比寿で刺青屋を営む大将と、その顧客たちだったようだ。
話してみると、なんだ類友だ。話せば話すほど面白いじゃないか。
なんなら一緒に今から飲むか?ぐらいのやりとりだったっけ。
その出逢いから約3年、未だに僕には刺青は無い。
だけど、刺青のデザインを提供することを始めた。
僕の持つ先入観は変わったけど、この国が持つ、いや、大多数の国民が持ってしまった先入観は変わっていない。
場所を選ばず温泉に浸かりたい。これが刺青を入れない一番の理由だと思う。もしかしたら、2020年を機に概念が変わるかもしれない。そうなればもしかしたら…

言霊と縁 2014,12.30 琉球新報掲載

連載最終回にあたり、いまさらですがsoyamaxらしい文章スタイルで書かせてもらうことを予めご了承ください。この原稿を書いているのはクリスマス間近の台湾。そういえば半年前の初回原稿も台湾でキーボードを叩いていたのを覚えている。14回にわたる連載で、縁筆書家soyamaxの生きざまがほんの少しは明らかになっただろうか。soyamaxといえば縁に生き続ける人生。一言で言えばこれに尽きる。日本に生まれたのも縁、病気したのも縁、いろんな人に拾われるのはそれこそ御縁。こんなに人生が楽しくなるとは、18~20歳の闘病当時の野心以上に想像以上である。「幸福は自己満足、不幸は被害妄想」バートランド・ラッセル著の幸福論の言葉が好きだ。知ったキッカケは江頭2:50が口にしていたことからだったけど。誰に言うのか、誰が言うのか、そういう言葉との縁というものさえある。素晴らしい言葉はときに命すら救う。そして出逢いは突然にやってくる。「自分で自分を派遣した」そんな言葉に出逢ったのは、女優・香里奈が好きという理由だけで観た映画「深呼吸の必要」。沖縄の離島でのサトウキビ狩りの話。そんな作業風景に憧れて西表島に渡った僕は三日でクビになった。予定していた二ヶ月をそこで過ごさなかった御縁で「自分で自分を台湾に派遣した」のが2008年の出来事だ。クビになった不幸ではなく、解き放たれた幸福を大事にする。要は気の持ちようだけども、気力がなければ行動は起こせない。「元気があれば何でもできる」アントニオ猪木もいい言葉いっぱい放ってくるから大好きだ。「何かを成し遂げた達成感よりも、何かに燃えている充実感がいい」これは高田純次の言葉。なんだかsoyamaxのお気に入り名言集みたいになっちゃいましたね。琉球新報落ち穂、これにて最終回になりますが、文章を綴って発表するいい機会を頂きました。本当にありがとうございます。まだまだ書き足りないことだらけなので、今後は月に一度、ホームページ上に載せていくことにします。では「soyamax」検索、これからもよろしくお願いします。

アナログとデジタル 2014.12.16 琉球新報掲載

アナログな仕事をデジタルで繋ぐ。デジタルな出逢いをアナログで結ぶ。筆仕事はそのほとんどがアナログです。筆を滑らして線を画く。そして、それを買ってもらう。単純に言えばそれが仕事なので、極端にアナログかもしれません。口コミだけで広がって注文が入ってくるようであれば、それが一番ありがたいのですがなかなかそうもいきません。ブログを始めたのは二〇〇五年21歳、当時は宮城県女川町の原発職員でした。キッカケは流行り出したからやってみるか程度のものでしたが、意外と反響もあり、家族への近況報告がてら毎日書いていました。バックナンバー読んでみたい方は「soyamax ブログ」でどうぞ。当時は、mixi(ミクシィ)というSNSが流行っていたので、それを通じて出逢った仲間も大勢できました。例えば「新潟出身宮城在住」とか「石巻平日夜集合」とか「下手くそダーツ部」とか類は友を呼ぶであろうコミュニティを立ち上げて、出逢うキッカケを作るようなこともしていました。最近ではもっぱらfacebookでしょうか。二〇一〇年に始めたそれのおかげでブログの更新をさぼるようになったことは反省しなければなりませんね。facebook、いまではなくてはならないツールの一つになっていますがもちろん賛否両論、そろそろ来年ぐらいからどうなるかわかりません。さておき、縁筆とは「名刺を渡す際に必ず裏面に相手の名前をアートにすること」としてやっています。その作品を写真に撮ってアップロードしてくれる方がいて、それを欲しがる人が出てくる。そしてなるべく、ぼくはその人に逢いに行く。そんな連続なのです。基本的にはお酒の場が多いかな、好きなのでね。お酒と言えば、元々料理人なので料理の話もしましょうか。五感で愉しむ料理はデジタルでは見た目しか表現できず10%も伝わらないじゃないですか。その人の料理はその人に逢わなきゃ食べれない。飯は熱いうちに喰え。
人は死ぬ前に逢え。デジタルがどれだけ進んでも結局人間はアナログだから死にます。だからこそ、アナログな生き方が好きなのかもしれませんね。

soyamaxの親父 2014.12.02 琉球新報掲載

「両親と別の血」が流れています。そう、過去のコラムで紹介させていただきました。矛盾するような話ですが、今日は親父の血を感じて生きる、そんな話を書いてみます。自認するほど変わり者の僕から見ても変わり者だと思います。米どころ新潟の百姓の末っ子。中卒の親父、若いうちは酒屋で働いていたと聞いてます。その後、自動車二種免許を取ってタクシーの運転手を何年かやっていた頃、結婚して突如開業したのが便利屋。自宅兼店舗を構え、売店を商う一方、頼まれればできる範囲でなんでもやる、そのような仕事をしていました。どこで出逢ってくるのかわかりませんが、お得意様はお年寄りばかりでした。出逢う力、縁を仕事にするプロフェッショナルだと思います。依頼内容は、買物代行、庭の草刈り、障子の張り替え、家電修理、自転車修理、大掃除手伝い、下水掃除、その他多岐にわたっていました。その中でも、下水掃除の一コマで親父は開眼しました。下水の重たいコンクリート製のフタをお年寄りたちが腰を痛めて開け閉めしている。どうにかならないものかと試行錯誤し、テコの原理を応用して子供一人でも開け閉めできて、なおかつ安全な機械を自宅のガレージでアーク溶接を駆使して自作しよったのです。新聞やテレビの取材が自宅に来て、小学生時分の僕には刺激的なひと場面になりました。特許出願、実用新案なんかも申請していましたが、すぐに大手メーカーに模造されてしまいました。インターネットもまだまだ家庭に普及していない、ADSLどころかISDNもなかった20年以上も前の話、子供心に悔しかったのを覚えています。そんな親父の真骨頂、出逢う人出逢う人みんなに馴れ馴れしく喋りかけます。子供の頃は、そんな親父を恥ずかしく思っていて、正直イヤでした。入院中の僕の病室に来ては、親父の同世代の患者さんたちと仲良くなる始末とかしばしばありましたし。しかし、蛙の子は蛙ですね。顔だけじゃなく、そんな人との縁の繋ぎ方まで遺伝したように感じます。職種は違えど、縁が一番大事な自営業の血、しっかり受け継いでます。

金髪という覚悟 2014.11.19 琉球新報掲載

縁筆書家soyamax=金髪×丸眼鏡。まだフリーランスとして活動し始めて2年弱ですが、それなりに定着してきたイメージだと思います。そもそも金髪になった理由やキッカケというのがあるのですが、簡単に一言で済ますなら、「出来ることを出来るうちにやる」という言葉がしっくりくるかもしれません。過去に働いていた電力会社もリゾートホテルも当然ながら金髪はNGでした。日本の多くの企業では歓迎されないであろう「金髪」。不真面目、親不孝、ならず者、そんな第一印象を与える可能性があるのは拭いきれません。憧れの一人でもある、タレントの所ジョージさん。いつからかはわかりませんが、トレードマークは金髪と眼鏡です。不思議とその共通点からか似ていると言われることもあります。逢ったことも喋ったこともありませんが、彼の人柄を言葉に置き変えるなら、遊び心、柔軟性、アーティスト、そんなワードが合うような気がします。世田谷ベースとかたまんないですもの。いつかお逢いしたい、そんな一人ですね。話戻して、金髪のデメリットを揚げるとすれば、明らかに頭髪・頭皮に良くないということ。しかし、そこまでしてなぜ金髪なのか、それは将来高確率で禿げるから、これも一つの大きな理由です。18歳~20歳の約二年間は抗がん剤治療による脱毛でスキンヘッドで過ごしました。それはそれで愉しんでいたのですが、遺伝的に禿げるであろうこの先「出来るうちに出来ることをやろう」ということで、今ある自分の毛を色で遊ぼうと思うのです。

最後に金髪の利点にも不利点にもなることですが、とにかく目立ちます。大多数が黒髪もしくは茶髪の日本において、それはもう本当に目立ちます。街中で遠くにいても僕とわかるそうです。東京のバスの中で、SNSで見たことある!と、はじめましての挨拶をされたことがありました。京都では、後姿だけで僕とわかって追いかけてきた久しい友人がいました。もし金髪じゃなかったら逢えなかったであろう人たちもいると思います。沖縄県内で金髪、丸眼鏡、痩せてる178cm30代男性はほぼ私です。気軽に声かけてくださいね。

中途半端のすゝめ 2014.11.06  琉球新報掲載

全てが中途半端だと自負しております。運動能力まぁまぁ、知能指数平均値、身長178cm、体重58kgは軽すぎるけど、視力も聴力も味覚も嗅覚も触覚も特に優れたものはありません。趣味やスキルについても、パソコン、ゲーム、パラグライダー、テニス、バドミントン、ダーツ、ダイビング、中国語、英語、そろばん、その他もろもろ、どれも中途半端にたしなむ程度に経験してきました。その中途半端の連続が役に立ってます。いろいろやっていると、いろいろな人とコミュニケーションが取れるようになります。人への好奇心も重要ですけど。趣味にせよ、仕事にせよ100%で出遅れるより、50%いや10%でも動き始めてしまうんです。要するに子供の動き方と一緒です。考えるより先に体を動かす。もちろん時と場合によるとは思いますが、巧遅拙速という言葉があります。文字通り、巧くて【うまくて】遅いより、拙くて【つたなくて】も速い方が良いという兵法書「孫子」の言葉。あくまでも、TPOに応じる必要はありますが、迷い、悩む時間があるのならさっさと始めてしまえばいいのかなと。そう思うのは自分自身が生き急いでいるからかもしれませんが、憧れる大人たちはみな、この巧遅拙速で動いているように感じます。「憧」って「心童」って書くぐらいですからね、やっぱり童心っていくつになっても忘れたくないものです。好きでやってりゃ巧くなります、大概のことは。四字熟語ばかりでインテリぶってますが、「樂則能久」【らくそくのうきゅう】という言葉をお客さまに教えていただきました。中国史小説「子産」で登場する言葉で、簡単に言うと「楽しくやれば長く続く。逆に言えばつまらなければ続かない。」という意味だそうです。当たり前のようなことですが、意外と意識しないでいるとつまらなくなって長続きしないものってありますよね。英語も中国語もロシア語も全っ然まだまだですけど、現地で使うのが楽しいから続けられます。中途半端でもいい、巧遅拙速、樂則能久、意識してやってみると童心に還るかもしれませんよ。

無差別料理研究家 2014.10.23 琉球新報掲載

「命薬【ぬちぐすい】」という言葉を知ったのは、19歳の闘病時代だったと思います。いろんな食べ物を試しました。昨今ほど玄米菜食主義が流行っていない12年前のことです。いまでも強烈に覚えているのがアガリクス茸。癌に効くキノコとして昔から君臨してる代物ですが、その味たるやもう酷いもので…良薬口に苦しと言っても、そもそも口に入れて吐き出すようなものは、自然界ではあり得ない摂理ですよね。苦痛だらけの抗がん治療で、味覚までストレスを与えるのは、治る病も治らないのではないかと。そんなタイミングでした。媒体は忘れましたが、「命薬」という言葉を目にしました。医食同源、心と身体を癒す料理、沖縄の紫外線に負けない野菜の抗酸化力、そんな世界を知り、その地で体得したいと病床で情熱を燃やしていました。「完治」の目安である骨髄移植から5年後の24歳、当時はド安定間違いない電力会社を辞め、沖縄に移り住み、沖縄調理師専門学校へ入学しました。そこを選んだ理由は、ただの沖縄料理ではなく、琉球王朝の宮廷料理を教える学校だったからです。肉も油も高級嗜好品だったからこそ生まれた滋味深い薬膳思想が新鮮でした。とは言っても、食の好奇心は更にエスカレートし、珍しい食べ物があれば大概まずは食べてみます。東京にいる昆虫料理研究家にも逢いに行きました。遊び半分の研究ではないのです。ほとんどの霊長類は獣を獲ってまで食わないそうです。虫食って理にかなってるような気がします。NASAもWHOも遠くない未来のために、昆虫養殖を本気で取り組んでいます。外人さんが納豆好きだったら、それだけでその人を好きになります。例えば臭豆腐が好きなら台湾人に気に入られます。未体験ですが、どこぞの先住民と一緒にタランチュラを獲って葉っぱで包んで焼いて食べる、そんなこともしてみたいんですよね。国の、地域の食文化を差別しない料理人。そう意気込んで名乗っている無差別料理研究家ですが、アーティストとしてこの度11月1〜3日、那覇市で書画展を開催させていただきます。詳しくは、「soyamax」検索。

字を診て字を画く 2014.10.09 琉球新報掲載

二十歳のとき、筆跡心理学というものを勉強しました。始めたキッカケは、インターネットサイトamazonで、たまたまオススメに並んでいた「筆跡診断」という書籍を100円で買ったことでした。一冊読み終わる頃には、次の専門書を探していました。結局9冊の本を買いました。それほどのめり込む世界だったのは、自分の癖の強い字が、統計学、心理学に基づいて的確にドンピシャに当てはまっていることを体験したからかもしれません。ある程度診断方法が分かってきたときに、家族、友人たちに被験者として協力してもらいました。ぼくがまだ沖縄に来る前の話です。ありがたいことに評判は上々で、口コミで依頼がいただけるようになりました。趣味として、コミュニケーションスキルの一つとしてやり続けていたら、ここ一年ぐらいは正式に仕事として全国各地へ出張、派遣されるほどまでになりました。趣味を仕事に。本当にありがたいご縁をいただいております。「書は人なり」そんな言葉があります。例えば、硬い字を書く人は硬い、柔らかい字を書く人は柔らかいとか、刃物を扱う筆跡だとか、美意識の高い筆跡だとか。そのようなお客さんの字を診た直後に、そのお名前をその筆跡の要素を含めてアートにしてお渡ししています。その際、必ず取り入れる要素は、健康運だけは全ての人に備わるようにと画いています。いわゆる美文字とは到底かけ離れている、生きて踊っているような書画が僕の作品の醍醐味だと言われます。鳥肌を立てて喜んでくれる方や、ご家族やご友人を連れて来てくれる方もいます。体験された方にしか伝わらないので、もし興味がございましたらお問い合わせください。日本ではまだあまり着目の薄い、筆跡心理学。フランスでは弁護士に並ぶほどの国家資格だそうです。いまはまだ日本語での診断しか出来ませんが、せめてまず英語だけでも出来るようにしたいところです。アートと料理での国際交流にもうひとスパイス加えられたら、旅が断然面白くなるはずだと思います。字を診て字を画く、そして飲んで食って笑える旅。骨髄移植から11年、まだまだこれから走り続けます!

ヒョンナキッカケ 2014.09.25 琉球新報掲載

ヒョンナキッカケの話です。ある日、路上に座って針金細工を作っていました。当時、同じホテルで働いていた友人である極彩色画家・せきぐち彩氏が、紹介したい人がいるんだけど…そう言って連れて来たのが「沖縄アートグループ」主宰・砂川洋子氏でした。針金細工はたいして響いていないようでしたが、せきぐち彩個展晩餐会のお仕事をいただきました。というのも、彼女はゲストハウス「チャンプルー荘」オーナーでもあり、そのロビーを「沖縄アートギャラリー」として開放している若手アーティストのサポーターなのです。そんな好き者のひとりに選ばれ、紅型作家・新垣優香氏とのコラボレーションをすることになりました。畏れ多くも彼女の作品に上書きで字を重ねる作品を大阪に展示させてもらいました。当時僕は、西原町で麺処「鍵」の店長をしていました。2012年9月、レンタカーで乗り付けたお客さんが「大阪であなたの字を見たんだけど、ウチの美術館で個展やってみないか?」と、あまりにも寝耳に水なお話。福島県いわき市「金澤翔子美術館」のオーナーさんでした。僕だけで話すには荷が重すぎたので、その夜のうちに沖縄アートグループを紹介しました。2013年2月、第一回個展開催と同時に麺屋の職を辞め、趣味の筆から仕事の筆に切り替えました。福島県いわき市、初めて赴く町ではありましたが、縁が無かったわけではありません。2011年9月、いわき市出身の絵師・高萩正志氏と恩納村路上で意気投合し友達になりました。彼の人徳で、いわきでの友人も多く出来ました。それとは別に、沖縄調理師専門学校の先輩が切盛りする食堂がいわき市にあるというのを、校長に教えてもらいました。「A家食堂」岩立文子氏、パワフルな姐さんで、本当にサポートしてもらってます。美術館でのご縁あって「えにし」という豊田酒造場さんの地酒のラベルを、そして「いわき花火大会」の題字も担当させていただきました。縁のあることしかない、いわき。育ててもらってます。本当にありがとうございます。来年はいつ行けるかな?

おそロシアではない 2014.09.11 琉球新報掲載

2014年8月、「モスクワに来ないか?」と誘われて約3週間ほど滞在して来ました。その誘った男は29歳、半年前に台湾の山奥で出逢ったモスクワ大学の両生類博士で、やはり僕と一緒の異端児です。旅費の工面は出来ないけど、宿と仕事のサポートは精一杯やらせてくれ。そんなラブコールをもらいました。彼がこのタイミングで呼んだ理由は、この8月は他の国へ研究で出ることがないこと、そして、彼が主催するモスクワ大歌舞伎というイベントがあって、その余興をお願いしたいというのです。正直モスクワ行きに迷いはありました。呼ばれているうちが花だと背中を押してくれたのは、桜坂市民大学で、世界を舞台に仕事をする講座を開講しているあの人です。他にも僕の憧れている年上年下関係なく刺激を貰って行動に移りました。博士にアートスクールでのゲスト講師という仕事を紹介してもらいました。打ち合わせから教室まで、すべて同伴通訳までしてくれて本当に手厚すぎるぐらいのサポートです。路上は危ないと言われたけども、僕が試してみたいというと、保護者のように寄り添ってくれて、挙句の果てに警察もマフィアも巻き込んで仲良くなる始末。そうは言っても、毎日付き合えるほど暇人じゃない大学の博士。「ボターニク」という名の「親日親露交流会」を紹介してくれました。ロシア語を勉強している日本人と、日本語を勉強しているロシア人、主に大学生を中心とした基本的に誰でも参加可能な集まりです。そこにいた日本人留学生の何人かが、僕の路上活動を手伝ってくれると言うのです。モスクワでは英語が伝わらないお客さんが多いので本当に助かりました。留学生にとってもそういう一期一会が素晴らしい勉強になったと思います。そんな彼らも手伝ってくれた例の歌舞伎での席上揮毫は、満員の観客に囲まれて静けさと笑いのある最高の舞台になりました。夏のロシアは人も気候もアツかった。スパシーバ!

追伸、来たる9月20日~23日に「備瀬の野外アート展」と題して沖縄アートグループの展示会を開催します。会場はフクギ並木および備瀬公民館です。会場で是非、お逢いしましょう。

ツテの無い国で 2014.08.29 琉球新報掲載

つい最近の話です。1週間ほどフィンランドへひとり旅をして来ました。生まれて始めてのヨーロッパ。友人どころか知り合いもいないフィンランドを選んだのは、それが僕の挑戦だからです。日常会話も出来ないほどの英語力と、「縁筆書家soyamax」という存在でなにが出来るのか。ユーロ換金なし、宿の確保なしで始めた8月12日。ヘルシンキの港町の路上に座って筆を持ちました。恐怖と緊張はありますが、日本でやるより恥ずかしくはないものです。さすが観光地、お客様の半数はフィンランド以外の方。中国、イラン、ドイツ、アルゼンチン、そして日本人も。お互い旅の一期一会。そんな中、短髪が格好いいフィンランド人が食いついたのです。「私はフリーのカメラマン。友達のジャーナリストにあなたを取材させたい。宿はどうしてる?うち、ルームシェアだから泊まってっていいよ。1週間?全然OK!なんでって?あなたが面白そうだから。」あまりにも筋書きの良すぎるドラマ。渡された名刺の住所に辿り着いて、ウェルカムパーティを自分で開くのは「無差別料理研究家soyamax」としての僕の天命。他のシェアメイトとの交流も楽しい。翌日、芸術高校に通う高校生に「うちの学校で授業してほしい」と頼まれました。教師じゃなく、生徒が誘うとはこれまた面白そうだと快諾したものの、言語力の未熟さは拭いきれません。するとその日のうちに呼んでもいないのに、いや、魂で呼応しているのかもしれませんね、漢字が読めるほど日本語が堪能なフィンランド人と友達になりました。事の次第を話したら、通訳として付き添ってくれることになりました。事実はドラマ以上に奇なりとは良く言ったものです。30名ぐらいかなって予定していた授業は、開けてみたら65名。その65名全員と縁筆を交わしたのは言うまでもありません。フィンランドのことわざ「賢い馬鹿は馬鹿な賢者より賢い」この言葉を覚えたのは、最終夜、自分で開いた送別会で旬のザリガニを食べた夜でした。ツテのない国でも類は友を呼びました。有り得ないような、だからこそ有り難い出逢いをありがとう。キートス!

我以外皆我師 2014.08.15 琉球新報掲載

書道経験はありません。そう言うと、みんなに驚かれます。ですが、経験者であればひと目でわかるほど、僕の書は基礎度外視なものです。そんな作品なので否定的なご意見も当然たくさんいただきます。そしてまた、この考え方にも同じく賛否両論出るかと思いますが、それでこそ私らしいと思うのでここで綴ってみます。書の世界には、級位、段位、流派、派閥など「お堅い」ところを以前から感じていました。ところが絵の世界では、級も段も流派も派閥もないように感じます。印象派とか抽象派とか写実派とかはありますけど。僕の勘違いかもしれませんが、絵画には束縛が無いような気がしたのです。サラリーマンを辞めたのも、書ではなく絵として筆を持つことを選んだのも、丸二年の病床に束縛された反動なのかもしれません。作家・吉川英治さんの言葉に「我以外皆我師」というものがあります。「自分以外の人、物、森羅万象すべてが自分にとって先生となる」例えば、山河に行けばそれを真似てみたり、、金箔で絵を書く人から大きな刺激をもらったり、キャンドル作りのワークショップで墨と蝋の相性を見つけてみたり、武田双雲さんと喋ってみたり、路上で絡まれた酔っぱらいが今では尊敬する身近な絵師であったり、ポリバケツと塩ビパイプで世界を駆け回るミュージシャンがいたり、三歳児の描いた字と絵に衝撃を受けたり、雨の日の蜘蛛の巣が美しく見えたり、自分がいづれ作りたかったような器を作る陶芸家に出逢ったり、日本中にいる路上詩人と喋ってみたり、あげればキリがありませんが、とにかくもう出逢うもの全てが先生になると、人生が楽しくて楽しくて。そうは言っていても本命として憧れている人物もいます。北大路魯山人。昭和34年で既に亡くなられていますが、書も絵も器も料理もやってのける超毒舌男だったそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、美味しんぼ・海原雄山のモデルとされている人物です。自分にとって毒舌は不要ですが、食に関する美の追求をしていた先駆者として、大好きでもあり、追い掛けたい背中なのです。通ずるところはやはり賛否両論。時代を越えてもなお類は友を呼ぶものですね。

二年目の種まき 2014.08.02 琉球新報掲載

縁筆書家(えんぴつしょか)という肩書きで活動をはじめて2年目になります。

思い起こせば筆を持ったのは12年前の闘病中、ベッドの上でした。当時18歳、高校を出て就職したばかりの頃、悪性リンパ腫での入院。具合は悪くとも、持て余す時間の中で、三国志全巻読破と同時にやっていたのが中国語の勉強でした。そこで、どうせ漢字をたくさん書くのなら、ということで手にしたのが筆ペンだったのです。鉛筆やボールペンと違い、太い細いの変化、にじみやカスレなんかの表現が楽しく、絵を画くように字を書いて遊んでいました。病棟の患者さん、看護師さんたちに褒められ調子に乗った若造は10年後にひょんなキッカケで、それを趣味から仕事に変えました。ひょんな話はまたの機会にとっておきます。

さて、話を戻して縁筆書家として2年目の活動中なのですが、つい先日、「沖縄新鋭作家展‐動‐」というグループ展示会をサンエー那覇メインプレイスで行いました。一日に数万人が出入りすると言われる大規模商業施設での展示会は、ギャラリーや美術館で展示するのとはまるで違うお客様にお逢いします。この会場では3回目の開催ですが、毎回、緊張と興奮と不安が入り混じったような中、準備をしています。今回の展示テーマは「動」でした。始動、始めれば動かざるをえない。変動、動けば変わる。脈動、動けば脈が通る。心動、心を動かし合えば、感動、与え合えると思う。不動、動かないことじゃなくて、揺るがない生き方として。

常に意識している「動」ですが、今回改めて作品製作をしているうちに思い浮かんだ言葉です。動きっぱなしになることで、不安を感じないように生きているのかもしれません。そして、この1週間の展示期間中、予想もしない様々な脈が出来ました。カタコトの中国語で台湾人の友達も出来ました。感動を与え合うことも僕なりに出来たように思います。

この先、ロシア、シンガポール、マレーシアと僕を待ってくれている仲間たちがいます。1年目には考えられなかった、2年目の種まき。桃栗三年柿八年、そやまっくすは何年なのか、畑は出逢った皆さんです。

両親と別の血 2014.07.18 琉球新報掲載

十九歳の時に受けた骨髄移植の話の続きをします。骨髄移植は赤血球、いわゆるABO型の血液型を問いません。重要なのはHLAという白血球の型。両親から遺伝するので、兄弟間での適合率は四分の一、親子間ではさらに低くなります。僕には姉が一人いますが、両親含めHLA型が適合せず、骨髄バンクからドナーを探すことになりました。幸い僕のHLA型は日本人に多いタイプらしく、ドナー候補者が何名か見つかりました。その中から健康状態、飲酒、喫煙、年齢などを考慮し、絞りに絞って選定されたドナーさんは、十一年前の当時三十代O型の男性。海外出張が多く、スケジュール調整はシビアなものでした。そんなドナーさんの血液がいま、僕の体を流れています。十九歳でB型からO型に、両親のものではない、しかし他人とは思えない命の恩人の血が流れる体に変化しました。自分が三〇代になったいま、不思議と僕も海外へ仕事で出るようになりました。当時のドナーさんの職種は不明ですが、彼の骨髄をもらってから、ずっと自分のなかに違和感を感じています。自分の中に誰かがいるような、だけど、決して心地の悪いものではない感覚。自分では持ち合わせていなかったような感性が湧いたり、興味がなかった分野のものを不意に好きになることも。死生観の変化からなのかもしれません。しかし、この混血だからこその賜物だと思って有難く受け入れています。骨髄移植。残念ながら、僕はもう提供側に回ることはできません。母は献血マニアです。彼女の背中を見て育ったので、二十歳でドナー登録をすることが当たり前のような目標だったのですが、それは叶えられなくなりました。代わりにできる事といえば、自分の「提供された側」の話をより多くの人に伝えることだと思います。闘病記を出版しました。それに合わせてトークライブ、講演会などもさせていただいております。初対面の方にこそ、出逢ってすぐに打ち明けることもよくあります。その会話がキッカケで「いま闘ってる人たち」に何かチカラを与えられればと思い、今日も日本を地球を筆を片手に駆け回っています。

縁を筆で交わす 2014.07.05 琉球新報掲載

縁筆(えんぴつ)と呼んでいます。何の事かというと、僕が名刺交換の際に必ずやっているパフォーマンスのことです。渡す名刺の裏に、相手の名前をアートとしてデザインすること。常日頃思うこと、ハジメマシテの挨拶って、大半が名刺「交換」じゃなくて「渡すだけ」の方が多いのです。

主婦や子どもらが名刺を持たないのは当たり前のことかもしれませんが、会社員でも名刺が無いというのは結構多く、そんな彼らの名前を逐一フルネームで教えてもらっています。理由は3つ。相手の名前を漢字で知りたい。目の前で名前がアートに変わる瞬間を見てもらいたい。僕が死んでも生きた証を残したい。3つ目の理由が少し重たくなってしまうのは、僕が不妊症だからということもあります。2002年、当時18歳、悪性リンパ腫というがんを患いました。B細胞型リンパ芽球性リンパ腫ステージⅣ。治療法は小児白血病とほぼ一緒なので、嘔吐、脱毛、倦怠感ほか、ドラマ等で見るそれと同様の闘病生活を送りました。丸一年の抗がん剤治療を経て、骨髄移植を推奨されました。寛解(がん細胞がほぼゼロの状態)を完治にする方法として、家族と相談した結果、骨髄バンクから提供を受けることになりました。移植直前、大量の抗がん剤、致死量の放射線を浴びる過酷な前処置という治療を受けます。このタイミングで生殖能力が99%失われると事前に知らされていました。移植から12年が経過した今も「子作りはダメ元」を前提に生きています。遺伝子を残せないなら、と閃いたのがアートだったのだと思います。「芸術は長く人生は短し」というように。だから名刺を渡す際に「作品」として自分を渡そうと思いついたのです。沖縄県内はおろか、日本全国、時には海外でも神出鬼没な縁筆書画。来たる平成26年7月18日~24日、「沖縄新鋭作家展‐動‐」と題してサンエー那覇メインプレイスを会場に沖縄アートグループの一員として出展します。出逢いがあふれる会場で、いつもどおりの「名刺交換・渡すだけ」やっております。このコラムを読んでいただいたご縁の記念に一枚もらいに遊びに来てみませんか。